嫌われること

推しに嫌われること。

推し(想定3次元)と同じラインに立つことはないのだから、嫌われるというのは基本的には滅多に発生しない
私がストーカーのやらかしだったらまだしも、普通ならね。

まず私は認知が欲しくない。
それは、認知=個人認識→個人として嫌われると思っているから。
何やってんのあんたと言われそうだけど何もしていない。(ブログは書いてる)
「嫌われるかもしれない」という可能性を恐れている。
嫌われる→推すことを否定される(拒絶される)だと私は思っているのね。

そして冒頭に戻る。
けど推しと友人になるわけでも恋人になるわけでもプロデューサーになるわけでもパトロンになるわけでもなく、とにかく直接の関わりは絶対に発生しないのね。
私は1ファンで、あなたは向こう側の推しである。
同じラインには立たない。
なのに心配している。
画面の向こうの推しに嫌われることを心配している。
これを「夢女」だからだと言われると「あーそっかー」ってなるのでそれを名乗っていこうかなとも思う。
自分は否定していてもやっぱり同じラインに自分と推しを置いているのだってことね。


私は私の好きなものに幸せでいてほしい。
私の好きな音を出す人たちに幸せでいてほしい。
基本的には『嫌な感情』とは無縁の生活をしていてほしい。
君の思うままであってほしい。
とすると、その人の活動のファンである私が嫌われるということは、その人の活動の際に嫌な感情がちらとでも発生するってことになる。
嫌われたとしてもどの界隈でもよほどのことがない限り出禁はされないよね。
だから私は推しを見に行ける。
しかし、それだと"『嫌な感情』とは無縁"これに反しているなと思うの。
出禁にされていないからって嫌われている私が存在していることそのものが、邪魔でうざったいことだと。

見られてるというのが思い上がりだと思う?
けど良いにしろ悪いにしろ認知をするってことは見ているからだよね。
あちらからこちらが見られている。
ファンが思っているよりも舞台から見えているよというのは結構聞く話。
だから全ての客に挨拶をと思って目線を回したときに、その視界に『嫌い』が入ってしまうのは否定出来ないと思うんだ。

推しに嫌われたってファンを継続できるというのは、勝手に好きでいて勝手に離れられるファンの特権ではあるけど、推しに幸せでいてほしいと思う心に反してしまう。

良くない感想を書くこと

嫌われたくない、と思っている。
そこで、じゃあ悪い感想をネットに垂れ流すことはどうだろう?と思った。
私は基本的には「推しだから絶賛」というのが好きじゃない。ありえないと思う。
私にとっての良いの比率がめっちゃ高いから推しであるわけだけど、それでも絶賛はないと思う。
頑張りを認めてあげられても、作品としてみたときに不足しているなら不足していると私は思う。そして書く。

しかし悪いことを書かれていい気分になる人はいるだろうか?
ほとんどの人がいい気分にはならないと思う。
悪いことを書かれたら絶対嫌な感情をもつよね。
どんなに人間の出来た人でも、一瞬は心がざらつくんじゃないかな。
作品の出来と自分を基本的にはきちんと分けられているよという人でも、自分の中身を作品にぶつけているわけだから1ドットの重なりも無いなんて無理だと思う。

でもね、それでも私はご覧の通り個人的感想を垂れ流す人なんだ。
そういう人間が、そのように愛したわけ。

私は私の好きのあり方を変えるつもりが一切ない。
文字を制限する気も、まず無い。


じゃあどうする?

なるべく詳細に"良くない"を書くことがせめてもかなと思った。
最初から自分の好みではないとわかりきっている作品でも推しが出ていたら行けるなら行くだろう。
それに対してやっぱりつまんなかったではダメだと。
自分がどういうものを好む人間で、どういう部分に引っかかりを覚え、それをどのように解釈し反発したのか。
詳細に書いておけば、見た人が納得できるかなと思うんだ。
前提からこの人とは意見が合わないなってのもわかるし、解釈が違うから結論も違うんだなってわかるよね。

これ推しや関係者に見られる想定もあるけど、多くは同じファンに見られる想定かなと思う。
何かを購入する際に悪いコメントも見るようなものかな。
自分がそれに対して妥協や無視できるのかっていう。

感想そのものの有無

すごいそもそもだけど、私は感想は多くあるほど良いと思っている。
内容が良いにしろ悪いにしろ「それだけ何かを思う人が発生したのだ」ということ。話題性。強さ。影響。
もちろん良いに傾いているに越したことはないけど、「すっごーい!」だけでうっかり目にした人に興味を持ってもらうのは難しい。
「すっごーい!」自体が流行りまくって売れたのあるけどさw
あるけどあれも結局作品として出来が良かったからだと思うしね。